気持ちよさについて


快」と「楽」とは本質的に異なる

「快」「快適感覚」「気持ちよさ」と「楽」は本質的に異なるものです。
来院者の方々は総じて「楽になりたい」「楽にしてくれ」といった事を仰います。

不快症状が強ければ強いほど、そう考えるのは解ります。
しかし、その「楽」に向いた思考が病みをつくり出している場合もあるのです。

「楽」は単独的であり、調和には向かいません。
例えば、子どもの時を思い出してみて下さい。学校で掃除をしていて、さぼった経験がある人もいると思います。

先生達への反発心が強ければ、その時の後ろめたさは隠れてしまったりするでしょうが、一生懸命にやっている友達に目を向けた時、後ろめたさを感じたり、ばつが悪かったりするのではないでしょうか。
「楽」というのは調和には向きません。

これを、自分と自分のからだの関係に当てはめてみて下さい。何にもしないのが「楽」でいいやという人もいます。

しかし、それは自分の思考がつくり出しているだけなんですね。
その時はそれで良いかもしれませんが、だんだん何もしないのが苦痛になってくるはずです。

からだがそれを良しとしないのですね。
それでは、自然環境に順応できず、恒常性やバランスを維持できなくなりますから。

心の縛りが無ければ、からだは無意識のうちに静的にも動的にも動いて、調和に向かうのです。


からだは「快」の方向性に向いている

からだの調和に向かう方向性は、何で決まるかといったら「快」の感覚であり、からだに元々備わっている「快」「不快」を識別する能力である原始感覚が、そうさせるのです。

からだは70兆個の細胞から出来ていると言われますが、その一つ一つが「快」を選択し、結びつき、それぞれの器官を構成し、そして相関相補しながら全体として調和しているのです。

今、確かに実在しているからだに「楽」の選択はないのです。
「快」があるから新陳代謝もスムースに行われ、更新された調和の像が形成されます。

「楽」にしがみついた細胞があったら、それは様々な不調和の元となってしまうでしょう。


操体臨床は「快」「気持ちよさ」に問いかける

操体の臨床も「楽」に問いかけるのではなく、「快」なのです。
動かして診る診断分析法にしても、皮膚に接触する診断分析法にしても、「快」に問いかける。

動かして診る診断法にしても、自分勝手な動きでは「楽」にはつうじても、「気持ちよさ」にはつうじないのです。

「楽」への問いかけでは、その時の「楽」で終わってしまい、回復や健康維持、増進には、なかなかつながらないのです。

からだの動きは、動きの自然法則に則って動かすことで、自分の普段使いの動きではなく、からだ本来の動きが導き出されます。

そうすることで、「気持ちよさ」をからだにききわけるという事につながる。
その為に操者(施術者)が必要となるのです。操者は来院者のからだ本来の動きが導き出せるよう十分にサポート致します。


気持ちよさを原動力として

治すのは、あくまでからだであり、自分自身なのです。
これは、どんな治療法にも言える事だと思いますが、からだが応えてくれなければ、どうにもならないのです。

本来、自然とともにある、からだがどうしてほしいのか、その要求に対応できている時、からだは「気持ちがいい」という感覚で応えてくれます。

その「気持ちのよさ」を原動力として、からだはバランス制御に向かうのです。相関相補の結びつきも強まり、弱って悲鳴をあげていた箇所も全体の調和の元に快復に向かうでしょう。

そして、単にからだが回復に向かうだけでなく、「気持ちよさ」が心の奥底にも働きかけ、何らかの縛りからの開放へと向かわせ、精神的な病みの癒しにもつながります。

本来の心とからだは、一如の生命体として「気持ちよさ」「快」の方向に向き、調和が成るよう創造られているようです。

それを肯定して前向きに生きるか、一時の「楽」を求めて不調和を引きずるのか、その意思決定は本人がするしかないのです。
どうせなら、「気持ちよく」前向きに。